自分の運命は決まっている?!

キネシオロジの仲間のヒデカさんから月一度の本間キネシ練習会で先月本を借りました。他の人が借りていて、それをヒデカさんに返そうとする所で私が『なになに??』と奪い取った感じで借りました。インドの内容である事に興味を持ち、読んでみたら飲めりこんで行きました。一つは、アーユルベーダで習った事を書いてあった事。しかもアーユルベーダの第3章で心について学ぶのですが、なんちゃらピンと来なかった内容だったんです。

 

私たちの心は、男性エネルギーであるプルシャと女性エネルギーであるプラクリティで出来ていて、そこからマハーンになり、マナハを通じてアハンカーラに変化して行く。アハンカーラって言われた時点で、知らんガーナって感じになり、説明が英語であり、それがインド人がアーユルベーダを英訳をしているので、英語を母国語とするクラスメイトでさえ、『何を言っているのかイマイチ理解出来ない』と言っていた程。まあ、今、考えてみたら、英語だろうが日本語だろうが、サンスクリットだろうが、結局この考え方が独特な物であるから、この考え方が理解出来ていなかったらどんな言葉を使っても理解は出来ないであろうと。

 

でも、キネシオロジを通じて、色々な心の真理を学び中の私は、この本の説明が枯れた土に注ぐ水のようにスラスラと入って来て、楽しくなってしまったのです。頭で理解していた事を言葉に簡単に変換してくれたと言う感覚でこの本を読み、アーユルベーダの復習にもなった楽しい本でした。

 

まあ、アガスティアの葉と言うのは、5000年前にアガスティアが予言した内容を葉っぱに書いてあるもので、それを著者の青山さんがインドの山奥まで行って見つけて来た。そこには、自分の母や父の名前が記されていて、自分が来る時期までもが書かれていた。そこには、自分の将来結婚する人物や過去世や来世についてなども書かれていて、自分の運命は5000年も前から決まっていたのだ。。。。と言う事でした。

 

私は、占星術については、雑誌の一番後ろにあるコーナーのはすぐに忘れてしまうのですが、アーユルベーダの占星術に関しては、あまりにも授業で習った時に正確で精密で当たっていたので、一目をおいています。

 

アーユルベーダは、心の科学とは本当によく言った物で、自分の生まれてきた理由とか、私たち個人はどう生きて行く事が自然の摂理にあっているのか、なんて言う事を説いて行きます。

 

ただの占いと違うのは、その一生を自分にとって意味の有る事として、どういう風にその流れに身を投じて行くのかと言う事に重きをおいている部分にあると思います。

今月は、ピンクの洋服を着て、お目当ての彼にアプローチするチャンスです!

ッつー事に惑わされていないのと言うか。。。。

 

 

キネシオロジで慶太さんのセッションを受けた時に、私は彼が私の魂の方向性を指摘してくれた事に凄く感謝をしています。自分がどういう風に社会と関わって行きたいのかを、自分の魂が何をしたら喜びを感じて行くのかを一緒に考えてくれました。

 

アーユルベーダの占星術も同じです。自分が果たすべき内容が分かったら、他の人に惑わされる事無く、比べる事無く、そして後悔する事無く失敗を受け入れて進んで行けると言う事を感じます。

 

そして、私の先生のDr.Suhas は、診断の時ヴェーディック占星術を使っていました。Yatrikaも私の皮膚の件について解明する時に、ケツと言う星が今あなたを支配しているからどんなお医者さんにいっても、はっきりとした答えが出ないでしょう。でもこの星はあなたに取って沢山の学びをもたらしてくれるので。。。。なんて事を言ってくれた為に、自分の皮膚について前向きに取り組める様になったと同時に覚悟が出来ました。つまり自分の人生に責任を持って全うしてく方法を教えてくれたと言う感じです。

 

 

しかしながら、世の中にはその占星術やスピリチュアルな事を別の様に捉える人が居ます。崇めると言う形で。

それが宗教の一番上の人であったり、チェネリングが出来るとか、霊能力を持っているとか言う人であったり。青山さんの本にも書いてあるのですが、『サイババ』に会いたくて懇願して止まない人が沢山いると。誰かを崇拝し、その人が言う事を信じて、自分がその人のために尽くす事で自分を正当化している。

 

私たちが陥りやすい点です。(私もかつてそうでした)

 

やっぱり過去世がわかるとか、未来が分かるとか、守護霊とお話が出来るとか、凄い事だと思うんです。でも、それが出来る人も結局は私と同じ人間な訳で、病気もするし、腹が減ったらご飯を食べるし、トイレに行って排泄もするわけです。

 

その人はサイキックが得意であって、私はボディーワークが得意であり、私の友達は会計が得意であり、そして、別の友達は子育てが得意である。私が子育ての得意な友達の写真を家に飾って崇めたりする事が無いように、サイキックが得意な人を崇めること自体、なんだか変な話だと思っています。と言うか、みんな得意な事があって、誰にも甲乙がないということであると。

 

問題なのは、自分の得意な事を理解していなくて、盲目に得意な事を持つ人に我が身を投じてしまう事だと思うのです。だからこそ、自分が得意とする物を探す事が何よりも大切なのではないかと思っていました。

 

サイババが日本に来たと言ったら会いに行き、ダライラマが来たと言ったら会いに行き、スピリチュアルカウンセラーの人が鑑定すると言ったら今まで100もの鑑定をして来たのに、予約をし。。。。本来の目的を失っている状態に陥ってしまう。

大工を得意としている人に、家を建てて欲しいと言いながら、設計図の話し合いを一生しているようなもので、肝心の家が建って行かないのと同じなのです。

 

そんな事を気付かせてもらう一説が、この本に有りました。

p353

”我々の行為というものは、誰に、何をしたとしても、全て神に捧げられたものとなる。”

 

神を信じる信じないは別として、私たちは守護霊やら、スピリチュアルカウンセラーやらダライラマに認めてもらう為に何かをしているわけではなくて、自分の中に存在する崇高な何かを幸せにする為に行動をして経験をしているのかなと。

 

IHキネシオロジのマチルダが、授業の中で

『私たちの身体を遺伝子科学の研究者が調べたら、DNAの中に存在するコードを発見しそれをつなげたら、GOD(神)となったの。つまり私たちの身体の一つ一つ、細胞の一つ一つに神は存在しているのよ』と。

 

つまり、私たちは、自分の中に存在する神と他の人の身体に存在する神にいつも何か出来る状態に有るのだと言う事。素晴らしい能力を持った人にわざわざ会いに行かなくても、沢山のお寺巡りや神社巡りをしなくても、目の前に友達、家族、他人と言う神が体内に存在するひとがいるんだと言う事なんやなあ〜と。

 

青山さんの本にサイババが、

 

未来や過去を知ってお前はどうするのだ?結局お前が出来る事は現在にしかない

 

と言ったと言う内容が書いてありました。

確かに。

未来を知って悩み、過去を知って後悔する時間が有るのなら、今出来る事をする方が賢い今の使い方だと。

 

 

この本を読んで、たーくさんの事を考えさせられました。

私の事が書いてあるアガスティアの葉には『青山の本を読む』と書いてあるのかしら?

 

 

 

 

 

 

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